主夫のぽぽ(@carp0p0)です。
ブログ塾でご一緒させてもらった、琴市しづかさん(@koto1com)の記事です。
うん、これは泣くね。
本当に読んでいて不意に目頭が熱くなりました。
そして思い出してブログに書きたくなりました。
今の広島にはマツダスタジアムというどの球団も羨むような素晴らしい球場があるけど、広島で育った少年にとって最高の舞台は広島市民球場でした。
今日書くのは僕と広島市民球場の思い出です。
誰かの役に立つ記事ではないですが、よろしければお付き合いください。
観客としての広島市民球場
まだスクワット応援もやってなかった時代、僕は初めて広島市民球場の外野席に座りました。
当然、入場前には隣の”そごう”で弁当を買って。
印象に残っているのは1991年のオールスターゲーム第二戦。
レフトスタンドから観戦しました。
秋山選手が顔面に自打球を当てて負傷退場、野茂投手が代打で打席に立ち、工藤投手が外野の守備に就くという歴史的なゲームでした。
この年、カープはリーグ優勝。
まさかこの後、四半世紀優勝出来ないなんて考えもしませんでした。
僕のお気に入りは前田選手。
外野席から見る前田選手の背中。背番号1。カッコ良すぎました。
バックスクリーン裏のカープうどんにはいつも行列が出来ていました。
天ぷらが出汁を吸ってふにゃふにゃになっているのが好きでした。
憧れの場だった広島市民球場
僕は小学3年生になると野球を始めました。
普段練習しているのは河川敷。
試合をするのも小学校のグラウンドや運動公園。
でも、年に一度だけ憧れの広島市民球場で試合をする機会がありました。
初めて入ったダグアウトはとても広くて。
何よりも黒土が嬉しくて。
試合では無駄にヘッドスライディングしたりして。
スパイクの裏についていた市民球場の土を、家に帰って大事に瓶に詰めたりして。
中学最後の試合も広島市民球場でした。
ボーイズリーグのあるチームに入っていました。
はっきり言って弱小チームでした。
相手は当時広島県で最も強かったチーム。
そのチームの中心打者にスタンドインのホームランを打たれました。
しかもスタンドを指差すというガッツポーズを見せられて。
屈辱的でした。
まさかこの段階でその選手と同じ高校に進学するなんて思ってもいませんでしたが。笑
悔しさが残る広島市民球場
僕は高校生になりました。
1年生の夏の県大会予選。広島市民球場のスタンドから精一杯声を出して応援しました。
当時の3年生は春のセンバツにも出場していて、広島県内では敵無し。
しかし決勝で如水館高校に敗れてしまいました。
あんなにすごい人たちが負けるなんて信じられなくて、悔しくて泣きました。
2年生の時は市民球場で応援すら出来ませんでした。
偵察部隊として他球場に行って次の対戦校のデータを取るのが僕の役割でした。
前年と同じく如水館高校に負けたという一報を聞いたのは、一緒に偵察に行ってくださっていたOBの方の車の中。
OBの方が「昼ご飯でも食べよう」とご飯屋さんに車を走らせてくれました。
「残念だった」と言ってくれたOBの先輩の前で涙が止まりませんでした。
そして高校生活最後の年。
僕は選手としてではなく、主務として広島市民球場のダグアウトからスコアを書きました。
夏の県大会初戦は広島市民球場で迎えました。
相手は失礼ながら格下と言われる高校。
僅差の勝利に試合後のダグアウト裏で正座させられました。
そして迎えた県大会決勝戦。
絶対勝つ!と望んだけれど…負けました。
最後の瞬間はあまり覚えていません。
どうやら立ち上がれないくらい泣いていたようです。
最後の打者の結果をスコアカードに書くことは出来ませんでした。
表彰式。
本来、選手と監督、部長にしか渡されない準優勝メダルを「お前も頑張った」と部長が首にかけてくれました。
また泣いていました。
ぽぽ、考えた
僕は高校までしか広島で生活していないので、広島市民球場の思い出のほとんどはここまでしかありません。
広島市民球場はもうはありません。
最近では帰省して近くを通っても、無いのが当たり前の風景になっていました。
でも僕にとって最高の球場は広島市民球場でした。
確かに球場自体はボロかったけれど、観客席の椅子も壊れそうだったし、トイレも汚かったしけど。
でもやっぱり最高の球場でした。
最後に。
なんだか悔しい思い出ばかりのように書いてしまいましたが…僕にとって広島市民球場で最も印象に残っている最高のシーンは弟が甲子園出場を決めて歓喜の輪に加わっている場面です。
お付き合いくださりありがとうございました。
ということで今回はこの辺で。